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 常磐新平さんの想い出
2013年01月22日 (火) | 編集 |
常磐新平

直木賞作家の常磐新平さんが亡くなった。

もう20年近く前になるが、某官庁の広報紙の編集ライターをやっていた頃、常磐さんにインタビューさせて頂いたことがある。常磐さんは私の両親と同じ昭和6年生まれだが、早稲田大学大学院の英米文学科を卒業後、早川書房の「ミステリマガジン」の編集長を努めたインテリだ。小説を書くようになったのは翻訳者として名を知られてからだ。アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」、ゲイ・タリーズの「汝の父を敬え」、カール・バーンスタイン,ボブ・ウッドワードの「大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日」などは、夥しい翻訳書の中でも代表作と言えるだろう。

インタビューで印象に残った言葉が2つある。一つは「どんなに長く翻訳に携わっていても、3分の1位までは苦痛なものなんです。でも、それをすぎると朝8時から夜11時まで机に向かっても苦にならなくなる」というもの。常磐さんのように高名な翻訳者でも最初はやる気が出ないのかと、妙に親近感を覚えたものだ。

もう一つは、「自分が好きで読むのは時代小説なんです。時代小説にはカタカナがないから」という言葉だった。好きな作家は池波正太郎、藤沢周平、山本周五郎。エッセイを読むと、川口松太郎も好きで、繰り返し読んでいたらしい。確かに、翻訳モノはカタカナの量がやたらと多くなる。私も昔はIT系の記事などをよく書いていて、カタカナの中に平仮名のてにをはをつけただけのような文章になっていたので、常磐さんの気持ちがわかるような気がした。

実は常磐さんにインタビューをお願いしたのは、カード会社のダイナースクラブの雑誌「シグネチャー」に連載していたエッセイで、ご自身の離婚のエピソードが書かれているのを読み、さらに「熱愛者」(だったと思う)というその経緯が詳しく書かれた小説まで読んで、どんな人だろうと興味を惹かれたことも理由の一つだった。

長年連れ添った奥さんと別れ、翻訳教室の教え子だった陽子夫人と再婚したわけだが、出会ったときは二人とも既婚者で、特に常磐さんには前の家庭にも娘がいた。前妻には落ち度はなにもないため、陽子夫人が離婚しても常磐さんはズルズル決断できない。激怒した夫人は2階の窓から常磐さんのパジャマを投げ捨てる、というシーンがあって、その生々しさが鮮烈だった。

親と同世代なのに、ずいぶん情熱的な人なんだなと思ったが、実際にお会いしてみると、今だから率直に申し上げるが、「素朴な田舎のおじさん」といったイメージの地味で小柄な方で、冒頭にある南伸坊さんのイラストのままだった。とても、激しい恋をして妻子を捨てる人には見えなかったけれど、そういう人だからこそ、翻訳家から小説家に転身するために、過去の自分を知る親しい人たちとの決別が必要だったのかもしれない。私生活に負荷をかけることで、作家として立たねばならない状況に自分を追い込んだのだと、今ではそう思える。

そういえば、南伸坊さんにもその広報紙で1年以上もイラストを描いてiただき、新富町の事務所に伺ったことがある。懐かしい思い出だ。

10年前に亡くなった父は戦後のモノのない時代に青春時代を送ったせいか、豊かなアメリカ文化に憧れを抱くアメリカ大好き人間だった。留学など夢また夢の時代に、ペーパーバックを買っては貪るように読んだ常磐さんは、アメリカ文化やアメリカの小説を日本に紹介した功労者だ。直木賞を受賞した1986年から90年代半ばくらいまでは、常磐さんの小説や翻訳本はまだ読まれていたのに、いまアマゾンで検索してみると、レビューが書き込まれた本がほとんどないのは、ちょっと淋しい。

もっとも、常磐さんはエッセイで「作家にもピンからキリまである。オレのものなんか残るもんか。死と共に消えるのが何よりだ」という川口松太郎の言葉を紹介し「いさぎよい覚悟だ」と賞賛していた。だとすれば、これは常盤さん自身の気持ちなのかもしれない。それでも常磐さん、私はあなたの作品を読み返しますよ。たとえ時代があなたを忘れても・・・。





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