観劇・映画・ドラマ、ボルダリング、シーカヤック、健康法など、好きなこと、実践していること、興味のあることを徒然なるままに書いてみようと思います。
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 フルートアンサンブル カルミア 1stコンサート
2012年06月04日 (月) | 編集 |
カルミナ2

 今週末は2日続けて文化的な催しが続いた。日曜日の午後は親友Aちゃんのお招きを受けて、夫と共に蒲田にある大田区民アプリコ小ホールで開催された「フルートアンサンブル カルミア 1stコンサート」に足を運んだ。

 『カルミア』とは初夏に開花する別名アメリカンシャクナゲと呼ばれる花で、花言葉は『大きな希望』だそうだ。初めて耳にする花の名だったが、同じFC2ブログの中にフリー画像を提供されている方があったので、貼り付けてみたが、可憐で美しい花である。(花の詳細が知りたい方は、こちらへ)。

カルミア2

 アンサンブル自体は2010年春に結成されたばかりだが、Aちゃんのフルート歴は学生時代からうん10年。昨年秋には帝国ホテルから依頼されて出張演奏しており、アマチュアとはいえ、相当レベルの高いメンバーが揃っているようだ。ふだんから武蔵野音楽大学講師の中嶋伸夫氏を迎えて指導を仰いでいるそうで、今日の演奏指揮も中嶋氏だった。

 これまで、オーケストラや管弦楽団の演奏会には行ったことがあるが、フルートだけで13人というのは初めてだし、フルートという楽器について何も知らないので、どんな演目が並んでいるのかと興味深々だったが、会場で渡されたプログラムは次のようなものだった。

プログラム

1. ディヴェルティメント         W.Aモーツァルト
2. セレナーデ              P.チャイコフスキー
3. テルツェット             A.ホフマイスター
4. 5本のフルートのためのコンチェルト  J.ボワモルティエ
5. 四重奏曲
  フィオリトューラ           八木澤教司
  コロラトューラ
6. サウンド・オブ・ミュージックメドレー  R.ロジャース
7. 花言葉                 田中久美子
   マーガレット
   コスモス
   ライラック
8. “くるみ割り人形”より「花のワルツ」  P.チャイコフスキー


 グループ名にちなんで、演目は初夏を思わせる爽やかなもの、花にちなんだものが多かった。印象に残ったものについて、感想を述べてみたい。

セレナーデ
この曲はテレビのコマーシャルやドラマでもよく使われていて有名なので、冒頭のターターターター、というメロディを耳にしたことのある人は多いだろう。ずいぶん前に、サントリーホールでオルフェウス室内管弦楽団の演奏を聴いたことがあるが、オルフェウスは弦楽器16名、管楽器10名が基本構成なので、ヴァイオリンやチェロといった弦楽器の音色が強く響き、力強い感じを受ける。朝の情景だとしたら、雲が割れてバッと黄金の光が差し込んでくるようなイメージだ。それが全部フルートになると、朝もやの中からうっすらとやわらかな陽がさしてくるやさしい情景が目に浮かぶから不思議である。色でいったら、穏やかなベージュとか、白い近いグレーのような感じ。楽器によって曲の印象はこうも違うものか。う~ん、こういう女性がいたら癒されるだろうなア、と思わせるのが、フルートの音色の魅力なのだと改めて実感。

テルツェット
プログラムによると、これを作曲したホフマイスターはモーツァルトと同時代のドイツの作曲家なのだそうだ。自身がフルーティスト(この名称も知らなかった!)で、多くのフルート作品を残しているらしい。しかし、彼の曲を聴くのは今日が初めてで、このような人がいることは全く知らなかった。Aちゃんを含む4名で演奏されたこの作品、「にわとり」「カッコウ」「ロバ」とそれぞれの動物の鳴き声がモチーフとして配されていて、可愛らしくて、明るかった。ドイツ人らしくない明るさかも。ウィキペディアによると、ホフマイスターの評価は作曲家としてより、音楽出版者としての方が高いらしいが、ベートーベンから“もっとも愛しい兄弟”と呼ばれているのだから、きっと音楽や楽器に造詣が深く、人柄がよかったのだろう。

四重奏曲 フィオリトューラ/コロラトューラこの2作は1975年生まれ、いま37歳の若き作曲家八木澤教司氏の作品である。「フィオリトューラ」の語源はイタリア語で“花の咲くこと”、「コロラトューラ」の方は“華やかな旋律”という意味合いがあるそうだが、印象としては、どちらもキラキラ輝く万華鏡を見ているような、あるいは華やかな衣装を身に付けた道化師が玉を両手にくるくる踊っているようなイメージで、日本人ばなれした感性、音のセンスのよさを感じた。現代にもこんなクラシック作品を作っている作曲家がいたなんて驚きだ。もちろん、そう思わせるのは演奏する人たちのテクニックがあればこそである。

ちなみに八木澤氏、東日本大震災のチャリティなどで有名になり、昨年の紅白歌合戦で夏川りみさんと秋川雅史さんが唄っていた「明日という日が」の作曲家なのだそうである。八木澤氏のホームページによると、もともとは2006年に第30回全日本合唱教育研究会全国大会のために作曲したもので、こんなふうに東日本大震災の被災者のために歌われることになろうとは、本人も思ってもいなかったらしい。

花 
日本人なら誰もが知っている滝廉太郎の名曲は、アンコールとして演奏されたもの。昨日の公開講座で聞いた幕末維新の留学生ではないが、滝廉太郎もまた、明治34年に日本人音楽家では二人目となるヨーロッパ留学生として東部ドイツの名門ライプツィヒ音楽院に入学したのに、わずか2ヶ月で結核を発病し、満23歳という若さで亡くなっている。故郷の大分で死ねたのがせめてもの救いかもしれない。この花が発表されたのは1900年。それから112年たっても、大勢の人によって演奏されたり、歌われたりしているなんて、短くとも花も実もある人生だなと、凡人の私としてはちょっぴり羨ましい。フルートを自由自在に操って、このような優美な曲を奏でられるAちゃんやメンバーの方々も羨ましいし、素敵だなと思う。

 2回の休憩をはさんで、約2時間のプログラムはあっと言う間だった。会場では大学卒業以来会っていなかった友達とも言葉を交わし、再会を誓って会場を後にした。

 Aちゃんとは実家が近く、3歳の時から家族ぐるみの付き合いがあり、小学校から大学までずっと同じ学校だった。奇縁というべきか、実家の場所は変わったのに、10数年前に私が同じ沿線に越してきて、高校時代の「観劇の友」が復活している。但し、竹馬の友でありながら、性格はまるで違う。Aちゃんは妻・母・仕事の一人3役をこなしつつ、フルートでも地道に努力を重ね、いつのまにかプロの領域に達してしまうような人。

 翻って私は、欲望の赴くまま気の向くまま、何でも手をだすけれど、一つとしてモノにならず、いたずらに年を重ねて今に至っている。夫からは、付き合っていた頃に聴かされたピアノの発表会の演奏があまりにひどかったので「大人が弾くというから上手いのかと思ったら、騙された! 決して西洋音楽に手を出すな」と厳命されている有様だ。でも、昔三味線をちょっと爪弾いたら、才能あるって言われたっけ。あと20年生きられたら、もしかして?? あくまで、希望だけは捨てずにおこう。
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 拓殖大学公開講座「幕末維新の日本人アメリカ留学生たち」に出席
2012年06月03日 (日) | 編集 |
 shiozaki.jpg

 友人で作家の岡田光世さんからお知らせを頂き、生まれて初めて大学の公開講座に出席した。講師は光世さんのご主人で拓殖大学外国語学部教授の塩崎智さん。二人は私たち夫婦の結婚式にも出席して下さった親友の親友という間柄なのだが、諸般の事情で暫くお会いできずにいたし、塩崎さんはいったいどんな授業をしているのだろうという好奇心から、参加させて頂くことにした。講座の概要は次の通り。

「幕末維新の日本人アメリカ留学生たち」~新渡戸稲造以前・太平洋の架け橋の系譜~
•講 師:塩崎 智 拓殖大学外国語学部教授
•聴講料:【 無 料 】
•定 員:120名(事前申込は不要です、当日直接お越しください)
•日時:6月2日(土)1時から2時半
•場所:拓殖大学文教キャンパス(茗荷谷駅徒歩3分)C館304号室

 まず驚いたのは、開始直前に教室に着いたら、ほぼ満席と言っていいほど、席が人で埋め尽くされていたこと。光世さんによれば、この講座は主に地元の文京区民のためのもので、いつも30名くらいしか集まらないということだったが、とんでもない、すごい人気なのだ。

 なんでも、三大英文著作の一つ、『武士道』で有名な新渡戸稲造は文京区の小日向に住んでいたそうで、タイトルを見て、「新渡戸稲造以前」というのは、新渡戸稲造を含むのか含まないのか、という問い合わせが事前に何件かあったそうだ。新渡戸を誇りに思っている文京区民がそんなにたくさんいたとは驚きである。文京区民というのは、そんなに歴史好き、あるいは幕末維新好きなのか?

 では、どんな方たちが集まっているかというと、前の方にいる聴衆は、頭の真ん中がお皿になっていたり、白髪だったりする年配の男性たちが7、8割である。カルチャー教室は女性が8割位だし、いまは歴女ブームだというから、てっきり女性が多いと思い込んでいたから、これは意外であった。 ただ、年齢層からいえば、できればこのテーマは「高校生とか日本の未来を担う若者に聞いてもらいたかった」そうだ。その意味では、拓殖大学はもっと高校とかにアピールするべきだったかもしれない。

 今日のテーマは、幕末の留学生による「日本文化のアウトプット(発信)」。1853年にペリーが来航し、その13年後、1866年に幕府が海外渡航を解禁するが、実はそれ以前から諸藩は幕府に内緒で欧米に留学生を送っていた。63年には伊藤博文を含む長州藩留学生(留学はほとんどが藩単位とか、グループだった)、64年には同志社大学の創始者新島襄(彼の場合は単独密航)というように、63年から明治政府が正式に留学希望者に資金を貸与する75年までに、幕府・諸藩から幕末160人、維新後550人の人間が留学生として欧米に出国したというのである。当時の人口や経済状態を考慮すると、まさに「空前の留学ブーム」だったそうだ。

 しかし、何と言っても幕末の日本のこと。テープレコーダーもなければ、ネイティブスピーカーと出合う機会もなく、英語力ゼロの状態でアメリカやイギリスに降り立った留学生たちは、過剰な勉強、運動不足、主従関係(藩の若殿のお世話も兼ねて行くケースが多かった)、食べ物や気候の変化等々によって、結核を発症して現地で死んだり、中には発狂死する者もいたという。発狂といえば、1900年に夏目漱石がロンドンで発狂したのが有名だが、なんと慶応義塾の先生で英語の熟語集まで出版していた小幡甚三郎は、アメリカに渡ったのが25,6歳と遅かったこともあり、発音が悪かったのだろう、レストランの注文すらボーイに通じず、2年後には発狂し、客死してしまったそうだ。周囲の期待と自分は超エリートだという自負が重すぎたのだろう。

 アメリカに留学した250人のうち、専門知識の身に着く大学にまでたどりついたのは40人、わずか16%で2割にも満たない。しかしその一方、彼らの多くが「英文で」著書を出版したり、日本文学の英訳を文芸誌に発表したり、あるいは卒業式で日本をテーマにしたスピーチをするなど、アメリカ社会へ日本文化を発信していたというのは、すごいことである。

 そういえば、たしか旧歌舞伎座を設計した建築家の高原弘造だったか、下宿屋のおばさんがあまりに寝ないで勉強しているので、もっと眠らないと身体に悪いといさめると、「私が眠ると日本の進歩が1日遅れる」と言ったというエピソードを聞いたことがある。彼らは「何か一つ」身に付けて帰るという責務を担っていたそうだ。現代の日本人で、自分が文字通り国を担っていると自負している人間がどれくらいいるだろうか。よい悪いは別にして、「余人代えがたし」の立場にあるのは、天皇・皇后両陛下くらいではないか。

 話は飛ぶが、塩崎さんの大学の専攻は、上智大学時代が古代ギリシア史、国際基督教大学の大学院時代は地中海考古学であった。本来なら、考古学の教授になっているはずの人が、なぜ明治維新前後の留学生を研究しているのか? 長年の知り合いなのに、今日の今日までその理由も、それが自分が滞在していたボストンと深い関係があることも知らなかった。

 彼は大学卒業後、一時期、ニューヨークの「読売アメリカ」でジャーナリストをしていたが、1994年、約100枚の古い写真と手紙がスティーブン・マクローハンという人物から送られてきたという。彼はギルバート・アトウッド(Gilbert Attwood)というボストンの為替ブローカーの子孫だったが、どういうわけか日本と日本研究に興味があり、ボストンに来た日本人留学生を自宅に招き・支援して、彼らから日本の情報を入手していた。

 その写真はすべてそのアトウッド氏が日本人からもらったりしたもので、その中には岩倉具視、木戸孝允、西郷従道、森有礼など、明治政府の要職についた偉人たちの写真が数多く含まれていた。ところが、代を重ねるうちにその写真に写っているのが誰か、どういう経緯でその写真がアトウッド氏のもとにあるのかわからなくなってしまい、それを調べて欲しいというのが、マクローハン氏の手紙の趣旨であった。

 それを読んだ塩崎さんは「これは運命的な出会いだ。自分がやらなければ」と思ったという。普通なら、「面倒だなア。誰かほかの奴に振って逃げちまおう」と思うところだが、きっと歴史学者としての素養がはじめからあったのだろう。あるいは、前世でその写真の中の誰か、あるいはアトウッド氏とつながりがあり、「俺たちの偉業を世にしらしめてくれ~」という使命を託されて、この世に生まれてきたのかもしれない。

 ちなみに、1872年5月にアトウッド氏がアメリカ東洋協会で行った講演のタイトルは「日本の古代遺跡について」だったそうだ。日本に行ったこともなければ考古学者でもない彼の情報源は、ボストンの日本人留学生たちだったらしいが、大方のアメリカ人が日本の存在すら知らないような時代に、遺跡だなんて興味がある人はいたんだろうか。当時のボストンの富裕層は今よりずっと知的で、日本研究に熱心だったのかもしれない。

 私ももう20年以上も前になるが、ボストンの大学院に約2年間留学していたことがある。空港から降り立ったときは、一人の知り合いもいない土地で、右も左もわからなかった。部屋を探すにも、適当に現地の不動産屋に飛び込んで、あまりの家賃の高さにびっくりし、そこで出合った若いデザイナーの女性とルームシェアをしたりと、まさに珍道中の連続であった。当時の留学生がそうだったように、現地の教会の牧師さんや教会のメンバー、アメリカ人のルームメイト、現地の教授と結婚した女医さん、いろいろな国から移民してきた人たち、そして他国の留学生等々、さまざまな人たちとの出会いがあり、彼らのお世話になり、支えてもらった。

 彼らと違い誰の期待を背負っていたわけでもないけれど、いま日本からの留学生が減っていること、密航してでも世界を見たいという「熱」が若者から失せているとしたら、親世代になってしまった自分にも責任の一端はあるに違いない。ライターとして生業を立てていながら、私は少しも世界に「発信」していないしなアー、それどころか、日本語で書くばっかりで、英語の方は錆びついてるなんてものじゃない、と反省させられることしきりであった。いまからでも、大好きな宝塚歌劇の本を英語で出版すべきだろうか、などと自分ができそうなことを想像(妄想?)したりする。

 公開講座って、無料なのにためになるし、出来の悪い映画やドラマよりよほど面白かった。小林秀雄は江戸時代のご隠居は勉強が趣味だったと言っていたが、日本も白髪の学生がカフェで哲学や歴史や文学を熱く論じたりしたら、すごく面白い国になるだろうに。シルバー割引とか言って、学費が半額になったら、真剣に考える人もいるんじゃなかろうか。

 さて、講義が終わって立ち上がろうとしたら、塩崎さんの同級生らしき女性が「大人になったねぇ~。まあ、みんな各々の職場に行けば、そうなんだろうけど」と言ったのが耳に入って、笑ってしまった。白髪が目立つようなトシになっても、同級生というのは、互いの記憶の中では中学生や高校生のままなのだ。だけど、その記憶を持ち続けつつ、見守り、応援してくれる友達がたくさんいるのは、光世さん、塩崎さん夫婦の人柄であり、人や仕事へ真摯な姿勢が育んだ財産なのに違いない。

最後に、塩崎教授の研究について、もっと詳細に知りたいという方は、下記の2冊をお読み下さい。

アメリカ知日派の起源』平凡社、2001年
日露戦争 もう一つのたたかい』祥伝社新書、2006年



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